dream | ナノ


彼女のどこに惹かれたのか、その問いは幾度も繰り返されてきたことだ。けれど明確に答えられたことは一度だってない。何度も自問自答してきたけど、どれが正解なのか全く解からない。さすがに赤司君から諭されたときは驚きと動揺でひどく間誤付いてしまった。


"お前はいつだってオレを裏切ってくるな。ああ、これは褒め言葉だよ。……だが、部に支障をきたすようならオレとて黙っていられないこともある。"


肝に銘じておくように、そう言った彼はどんな難問であろうと迅速に正解を導きだせる人だ。大方は世評通りな人物だが、それ以上に彼は繊細で人情の機微に敏感なように見える。彼自身は部のため、自分のため、と言いつつも誰よりも部員や周囲の人間のことを考えている気がするから。

きっとボクの、この煮え切らない複雑な感情の正体も知っているのだろうけれど、何も言ってはこない。ボクが助けを求めれば、答えてくれるかもしれない。でもそれをしないのはボクのわがままだ。ボクと彼女の唯一の繋がりに介入されたくないし、壊されてしまうなんて以ての外だ。






念願の一軍に昇格し喜びを噛みしめる間もなく、バスケに明け暮れた日々は怒涛のように過ぎて行って…気がつけば最終学年を迎えていた。ずいぶんと帝光での練習にもついていけるようになったものの、まだまだみんなに追いつけるほどの技量は身についていない。自主練を終えてヘロヘロになりながら部室へ辿りつく頃には、すっかり陽が沈んでいるのが当然で…薄暗い部室内でおぼろげに存在を主張するかの如く鞄からはみ出していた携帯が点滅しているのに気付いた。ざわつく胸を誤魔化すように片手にとって操作する――と、表示された名前に思わず携帯を落としてしまいそうになる。


"あいたい"


顔文字や絵文字は得意じゃないと言っていたから気にしていない。何よりボク自身、ああいった類のものは使わないのでお相子だろう。たった四文字。変換も句点もない。けれどその簡潔なメッセージはひどくボクの心を震わせる。返信する寸暇すら惜しい。青峰君と黄瀬君が騒ぎ出したのを尻目に、試合並みの集中力でミスディレクションを生かして着替えを済ませた。あの二人に見つかってしまえば目的が果たせなくなってしまうだろうから…少し離れた位置で帰る準備をしていた緑間君が、珍しく声をかけてきたことには驚いたけれど。


"帰るのか、黒子。……今日のお前の運勢は12位だ。寄り道せずに真っ直ぐ帰ることを勧めるのだよ。"


直接的な言葉で告げられた訳ではないものの、緑間君が言いたいことは解かっている。青峰君や赤司君の言う懸念すべき要因についてと同じなんだろう。だけど、ボクはそれに気付かないふりをして、形だけのお礼と別れの挨拶を口にする。この場に全てを見透かす彼が居ないことに内心安堵しながら部室を後にした。そうでもしないとボクと彼女の関係が変わってしまう気がして…もう二度と彼女を辿ることが許されなくなりそうで、怖かった。



一歩でも大きく、一秒でも早く…!部活後の疲れさえも気にならないくらい、というのは言いすぎかもしれないが…疲弊した身体に鞭を打ってでも駆けたい気持ちは本心だ。校門の傍に蹲る小さな塊を視認できると、ドクリと大きく脈打つ鼓動。息切れの苦しさなのか、将又、彼女だけが齎す胸やけしそうな甘ったるい苦しさなのか、今のボクには解からない。ただ彼女と接する度に掻き乱すような痛みが全身を巡り、ボクの存在を確かなものへと示してくれるような気がするんだ。



「名前さん…、」



乱れた呼吸を整え小さく名前を呟く――が、彼女には届かない。彼女の視線の先は無機質な四角い電子機器。もう一度、紡ぐ。今度は少し大きな声で、彼女の名前を落とせばようやくその視線はボクを捉えたが、思わず息を呑んでしまう。大きく黒眼がちな瞳はじわじわ潤みだし、か細く零れたボクの名前にどうしようもなく胸が締めつけられた。整ったはずの呼吸も吹っ飛ぶくらいに、喉奥へ何かが詰まったかの如く浅く息が漏れる。

掌に爪が食い込むほど力を籠めて拳を握ることで、すぐにでも彼女を縛りつけて閉じ込めてしまいたくなる衝動を抑え込み、彼女を頭の先から足の先までを観察する。今回も例に漏れずボクと対面しても尚、彼女の小さな掌から長方形の電子機器が離れることはない。



「だって、……だめ?」



黒曜石を彷彿させる大きく黒い瞳が輝きを増して、艶を孕んでいく様はボクにとってはひどく毒だ。罠だと解かっていても、その蜜に吸い寄せられてしまう。そんな彼女を拒絶できるほど、ボクはできた人間ではないし理性的でもない。気付けば軋む胸に奥歯をぐっと噛みしめながら腕を広げて彼女を迎えいれていた。心と身体が全くの別物になってしまったかのようにちぐはぐなボク。ひどく滑稽だと解かっていながら、この噎せ返るほどに甘ったるい邂逅を止められないでいる。

聴覚を擽るのは心地良いソプラノで、いろいろな心労や疲弊も一瞬で吹っ飛びそうな気がするくらいに威力は絶大だ。例え…そのソプラノが奏でる言葉たちがボクの心を突き刺す刃だったとしても…今のボクには何よりも癒しとなっている。



「あおみねくんにも、おこられちゃった…。」



そう言って輝きを増した瞳から溢れ出る雫は、白くふっくらとした頬を伝ってぽたりとアスファルトへ染みを作る。思わず見蕩れてしまうほどきれいで美しい光景であると同時に、彼女の一部を取り込もうとするかの如く透明な水滴を吸収する地面に言い表し難い劣情と嫉妬が湧きあがって咄嗟に指先で掬う。



「もし、赤司君に…いえ、赤司君だけじゃなく誰かに何かを言われたときは…また、ボクのところへ来てください。……あの人じゃなくて、ボクの、ところに。」



濡れた瞳のまま、小さく頷く彼女に何とも言えない安心感と愛おしさが込み上げて、自ずと強張っていた身体の力も抜け落ちた。一時凌ぎの嘘だとしても、彼女がボクの言葉に頷いてくれた事実に歓喜してしまう。単純だと笑われるかもしれない。それでも構わない。それで彼女がボクの傍に居てくれるなら…ボクを頼ってくれるのなら、どんな手段でも厭いはしないから。
ああ、でもこれじゃあ赤司君の忠告を聞き入れることは出来なくなる。彼女には申し訳ないと思うけれど…そのせいでまたボクを必要として、甘えてくれる可能性が一ミリでもあるのなら、ボクは赤司君の行動を止めはしないだろう。何より、彼女のこんな姿を見れるのはボクだけの特権なんだ。青峰君にも、赤司君にも…あの人にすらも、見せないであろう事実だけが、今のボクには最上の優越となって満たしてくれる。



「送っていきます。…ずいぶん身体が冷えたでしょう?待たせてしまって、すみません。」



小さく柔らかな手をそっと包み込むと少しだけ力を籠めてくる彼女は本当にずるいと思う。ボクの心をたった少しの気まぐれで変えてしまえるのだから。どこまでも純真で自分の感情に正直な彼女の瞳は、微かに昏く鈍い光を孕んで漆黒に染まっている。ボクの行動はお見通しだろうから、きっと確信犯に違いない。それでも、彼女がそれを望んでいるのであれば…幾ら胸が痛もうが、呼吸がし難くなろうが、全身を不快な感情でかき乱されようが、こうやって自ら深みに嵌っていくし、懲りずに何千回も何万回も繰り返すだろう。歪だけどそれ以上に甘美なこの世界から抜け出す方法どころか、抜け出す理由さえ見つけられないボクは、どうしようもないほどに…



溺れていく。







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